- 158 :1/6:2005/08/29(月) 13:32:05 発信元:220.1.24.144
- シャボッチの墓前にひざまずいたナターシャの姿に声をかけられる者はいませんでした。
黒衣を纏った小さな背中は小刻みに震え、誰の手をも拒み続ける……
「……ナターシャさん」
ショボーンビッチは意を決して沈黙を破りました。
このまま放って置いたら、ナターシャはいつまでもここから離れず、頬を伝う涙は凍り付き、
凍てついた墓石を撫でる指の皮は剥がれ、彼女自身も凍てついてしまう。
「ブリザードが来ます。もう……戻りましょう」
「……嫌」
肩にかけられたショボーンビッチの腕を振りほどき、小さな墓石に縋るナターシャ。
「シャボッチが……寒いって……泣いてる」
「……ナターシャさん」
「痛いよ、苦しいよ、ママどうして? って……泣いてる……!」
ひときわ強い北風が雪を舞い上げる……ブリザード。
「だめですナターシャさん、あなたまで死んでしまう」
「嫌ぁ! 離して! 私も死ぬ……! シャボッチの側にいる! 離して!」
「ナターシャさん……!」
「シャボッチ! シャボッチ……! 嫌ぁああああああああ……!!!」
ブリザードの猛威も、ナターシャの慟哭をかき消すことはなかったのです。
- 159 :2/6:2005/08/29(月) 13:33:02 発信元:220.1.24.144
- 長い長い、シベリアの冬。診療所の玄関でコートの雪を払う。
幾日も続けて習慣になってしまった仕草を、今日もショボーンビッチは繰り返すのでした。
「毎日ご苦労さまだお」
「……あの、ナターシャさんは……」
白衣の女性の顔に浮かんだ表情を見ただけで、ショボーンビッチは答えを知るのでした。
ナターシャは昏(くら)い闇の中に自らを閉じこめてしまった。
闇の中で、我が子を守れなかった自分を責め続けているのだろうか。あるいは……
「今は、まだ、だめだお……会ってもお話しはできないお」
「……そうですか」
肩を落とし、溜息をつくショボーンビッチに、ナースは静かに語りました。
「母親にとって、子供を失うというのはそれほどのことなんだと思うお。
だって女は……10カ月も自分のお腹の中で命を育んで、苦しみの中からこの世に送り出す生き物。
その子があんな死に方をしたら……仕方がないってわかって欲しいお」
ショボーンビッチは言葉なく頷きました。
「今はナターシャさんの気が済むまで悲しませてあげるしかないと思うお。
周りはナターシャさんが立ち上がろうとした時に、やっとそのお手伝いをできるんだと思うお」
「……わかりました。ありがとう」
「でもね、今日はちょっとだけいい具合だったお。おやつのりんごを少し食べてくれたお」
……りんご。ナターシャさんはりんごが好きだったな……
ナースに挨拶をして、ショボーンビッチは診療所を後にしました。
頭上には満天の星。珍しく雪もなく、夜空はきんと冷たく晴れ渡っていました。
思い立ったように、ショボーンビッチは家とは反対の方向へ、歩き出しました。
森へ……ν速民の隠者が住まうあの森へと、ショボーンビッチは雪を踏みしめました。
- 160 :3/6:2005/08/29(月) 13:34:08 発信元:220.1.24.144
- 開け放たれた窓から吹く柔らかな風が、ナターシャの髪を揺らす。
シベリアに、短い春が訪れていました。
傍らには、ショボーンビッチの姿がありました。
「今日はいい天気ですね」
「……」
ナターシャは答えません。
それでも、その表情からショボーンビッチはナターシャの心を解するようになっていました。
ここまで回復するのにどれほどの時間がかかったことか……
でも、ナターシャは確実によくなっている、と、ショボーンビッチは確信しました。
「少し、外を歩きませんか?」
言葉なく、ナターシャはベッドから降りました。その足は萎え、
ぐらりと揺らぐ身体を、ショボーンビッチが支えました。
静かに、真綿をすくい上げるように。
診療所を出ると、ナターシャの足は自然にシャボッチの眠るシベリア民の墓地へと向かいました。
ショボーンビッチは何も言わず、ただナターシャを見守り、歩きました。
- 161 :4/6:2005/08/29(月) 13:35:09 発信元:220.1.24.144
- 「……これは」
ナターシャのひび割れた唇から、掠れた呟きが漏れました。
「りんごの、苗を植えたんです」
シャボッチの小さな墓石の傍らに、小さな苗木が植えられていました。
過酷なシベリアの冬に耐えられるように、と、それはよく手入れされ、
春になった今、幼い苗木は伸びやかに枝を伸ばし始めていました。
ν速の隠者から苗木を貰い、育て方を教えられ、初めはショボーンビッチが一人で世話をしていました。
そのうちに、一人、また一人と、墓地を訪れるシベリアの民が丁寧に、心を込めて、
小さな苗木をブリザードから守り、根付かせたのです。
「花が……」
小さな苗木には、まだ咲くはずのない白い花が一輪、風に揺れていました。
「……シャボッチ……」
春の風はひざまずくナターシャの髪を揺らし、それに答えるように小さな白い花が揺れました。
- 162 :5/6:2005/08/29(月) 13:36:08 発信元:220.1.24.144
- 『ママ、元気出して』
『僕はここで生きてるよ。僕はママの大好きなりんごの木になったんだ』
『パパが星になって、ママはシベリアへ行こうって言ったよね。ホントはね、僕、怖かった。
パパもいない、お友達もいない、寒いところへ行くなんて嫌だって泣いて、ママを困らせたよね』
『でも、ママはこう言ったよね「これからは新しい場所で、二人で強く、楽しく生きていこうね」って
だから僕、それでいいと思った。引っ越したら、シベリアって僕が思ってたよりずっとあったかくって
みんな仲良くしてくれて……僕、とっても幸せだった』
『パパが星になっても、僕の前ではずっと笑顔でいてくれたママ……僕、ママが大好きだよ』
『それに、シベリアも大好き』
『だからね、僕、ここで大きくなって、いっぱい美味しいりんごを実らせるんだ』
『ジュースになったり、アップルパイになったりして、シベリアのみんなに食べてもらうんだ』
『僕はここで生きて、どんどん大きくなるんだよ』
『だから、ママ、元気になって。みんながよくしてくれるから、僕こんなに元気だよ』
……シャボッチ……シャボッチ……!
苗木を包むように両手を広げたナターシャの姿は、幼い我が子を抱きしめる母親の姿でした。
『ママ、いつまでも立ち止まってたらダメだよ』
『ママもちゃんと幸せにならなきゃ、僕、怒っちゃうよ?』
『お星様になったパパもそう言ってるよ。聞こえるでしょう? それに……ね』
『ママを幸せにしてくれる人はすぐ近くにいるじゃないか。わかってるんでしょう?』
小さな白い花は、また風に揺れました。まるで、無邪気に笑うように。
『僕ね、ショボーンビッチの兄ちゃんなら、僕のパパになってもいいなーって思ってた』
『ね……ママ、幸せになって。大好きなママ』
『パパが星になった時だってママは強かった。ママなら絶対に幸せになれるって、僕信じてるから』
- 163 :6/6:2005/08/29(月) 13:37:08 発信元:220.1.24.144
- ナターシャは、顔を上げ、後ろを振り返りました。
ショボーンビッチが静かに微笑んでいました。
ああ……そうだった。
昏い昏い闇の中に在るときも、ずっとこの人は私の側に……ショボーンビッチさん……
「僕に、手伝えることはありますか?」
……あなたの幸せのために。
そして……旅立ちの時が来ました。
船のタラップを昇るナターシャの腕には小さな植木鉢が抱えられていました。
シャボッチのりんごの木と同じ親木から採った苗木は、シベリア村の人たちからの心からのプレゼントでした。
「新しい家の庭に植えましょう。きっと美味しいりんごがたくさん実りますよ」
ショボーンビッチに、ナターシャは静かに微笑みを返しました。
シベリア村の人々に見送られ、船が岸を離れていく。
離れていく陸地に目を凝らし、ナターシャは一粒だけ、涙を流しました。
あたたかな涙はほんのりバラ色に染まったナターシャの頬を伝いました。
ありがとう、シベリア。必ず、また戻ってきます。
それまでどうか、どうか、シャボッチをお願いします。
「冷えてきましたね。そろそろ中に入りましょう」
デッキから離れたナターシャは、手のひらでそっと自分のお腹を撫でました。
ショボーンビッチは気付いたかどうか……
……いつか、お兄ちゃんに会いに、シベリアへ帰ろうね。
パパとママと一緒に。